Yasukoの歴史探訪

日本史、世界史、美術史、郷土史など歴史が好きなので、趣味の写真を撮り込みながらまとめてみたい

      「Yasukoの心象風景」「ブロックフレーテの音色」を作っていますが、実は歴史も大好きで歴史部門を切り離してこのブログに書いていきたいと思っています。

      先日、上月城を写しに行ったとき、資料館の入り口近くに「立石孫一郎誕生地」という碑があった。その後ろには由緒ありそうな大きな家があった。倉敷の夜景その時は何も思わず帰ってどんな人物なんだろうと調べてみると、幕末の頃に倉敷にいたこともあったり、浅尾騒動を引き ...

      山中鹿助幸盛は月山の麓(島根県安来市広瀬町戸田)新宮村に1545年に、父は尼子晴久の家老であった山中満幸の二男として生まれたが、父は彼が1歳半で死去、母に育てられた。月山を望む広瀬の町並み兄幸高が病弱であったので家督を継いで尼子氏に仕えたがこのころは、尼 ...

      堺といえば仁徳天皇陵をはじめとする100数基の百舌鳥古墳群が知られている。戦国時代には堺は貿易港として黄金時代を迎え、日明貿易や南蛮貿易などの海外交易の拠点であった。当時は世界でも珍しい環濠都市で自治都市としても繁栄した。鉄砲を作る技術もいち早く習得し、 ...

      時代の年表1867年10月14日徳川慶喜が大政奉還を朝廷に申し出る。翌日これを受諾      12月7日神戸港の開港神戸港開港とともに外国人の居留地が山側に作られる、予め三宮ルートは避けるように言われていた。萌黄の館のような異人館が次々建設された     ...

      現在の津山城は備中櫓が再建されている初代藩主、森忠政の像・森蘭丸には似ていなかったに違いない津山藩初代藩主、森忠政(本能寺の変で戦死した森蘭丸の弟、18万6500石)からかぞえて90余年たった元禄元年(1697)4代藩主森長成は江戸藩邸で死去、嗣子がなか ...

      松平定信の孫で備中松山藩の婿養子となった、板倉勝静は20歳年上の、山田方谷に藩政改革を担当させて10万両の借金を蓄財10万両にすることに成功した。天空の城、備中松山城、登るのにはかなりしんどい御根小屋の場所は現在高梁高校、実務は麓の御根小屋でされていた高 ...

      天正7年(1579)宇喜多直家が毛利輝元と断交し織田信長に服属して以来、備前・備中境目周辺は織田・毛利が睨み合う緊張地帯となった。毛利氏は清水宗治に髙松城を預け、境目諸域に直属家臣や芸備国衆を派遣した。天正10年(1582)単独で毛利氏と戦っていた宇喜多 ...

      「備前法華に安芸門徒」という言葉は備前地域には日蓮宗が、広島県西部には浄土真宗が多いという意味で、岡山県南部には、特に備前地域には日蓮宗諸宗派の中でも不受不施派が多い。不受不施とは受不施と違うのは、日蓮宗を信仰しないものからの布施は受けない、他宗の寺院。 ...

      1717年(享保2)から翌年にかけて、岡山県総社市新本は、当時岡田藩の支配下にあった。新本義民騒動とはこの地区で農民たちが入会地の返還をめざして起こした百姓一揆をいう。この地区の大平山と春山は共有地で従来は村の持ち山として、村人たちが自由に使用していたも ...

      今から60年位前(1959年)に児島湾に締切堤防が出来て、備前の穴海と呼ばれていた児島湾は、淡水の湖と化した。現在は道路が通っていて昔の形跡はない。その児島湾の一番奥に八浜という漁師町が栄えていた。現在の八浜町並み保存拠点施設になっている元衆議院議員を務 ...

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