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常山は岡山県玉野市の北西部と岡山市南区灘崎町の境に、標高309.2m、その頂上には常山城が文明年間(1469~1486年)に備中の戦国大名三村氏の姻戚である上野氏によって最初に築かれた。以後上野氏の居城となった。

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3代目の上野肥前守隆徳が最後の当主で、夫人の名前は鶴姫。毛利氏は元就の三男小早川隆影が備中に勢力を伸ばそうと画策していた頃、三村氏は毛利に属し強力になっていった。鶴姫は備中国成羽・鶴首城主三村家親の長女であった。
しかし三村家親は1566年宇喜多直家の刺客に暗殺され、跡を継いだ三村元親は備前平野に侵入したが大敗(明善寺合戦)。
1573年主家毛利氏と宇喜多氏が和平、反発した元親は1574年毛利離反を決意した。この備中兵乱は備中松山城の落城元親自刃で終わった。あとは元親に同調した上野隆徳だけになり常山合戦がおこる。
結局、毛利の軍勢に取り囲まれ前日の予告通り、上野隆徳は城内で弟に介錯を頼み自害した。

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「備中兵乱記」を絵に描いて展示してあった。

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黄色は犠牲者

夫人の鶴姫は二の丸あたりまで下り、侍女34人と敵方に切り込み、毛利軍の武将乃美宗勝に一騎打ちを挑むが拒否され城に戻り自害した。城主らと女群の34墓がひっそりと残っているらしい。墓は昭和12年に建てられた。

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一族で城内で犠牲になったのは継母親子、弟、妹の夫、嫡男15歳、次男8歳で、この修羅場で隆徳の長女は生き延び迫川の上野氏、末娘は大崎池の内の長谷井氏へ、池の内には末娘と伝えられる道清夫婦の墓がある。池の内では男の子が生まれても鯉のぼりをあげないのはのは、地域中でかばっているらしい。
残った城主の妹は旧真備町岡田の三宅氏になっていく。

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大崎には大塚家の五輪塔があり常山城から落ちのびた国富一学が帰農して暮らしたという。一度行ったがわからいまま、帰り、二度目には近くに住んでおられる方にお聞きしたら現地に案内してくださってやっと辿り着くことが出来た。

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豊臣時代には常山は宇喜多秀家の所領となり、宇喜多の重臣戸川秀安が城主となった。山麓には秀安の墓と位牌所の友林堂がある。

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戸川秀安の墓

慶長5年1600年の関ヶ原の戦いで宇喜多氏が改易となり小早川秀秋が領主になると、その家臣伊岐真利が城主となった。1603年秀秋が病死し改易となると池田忠継の所領となり、忠継は常山城を廃城とした。

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ちょうど、玉野市の図書館で3月31日までの展示があったので大いに参考になった。
現在常山城は平成30年の崩落で、現場復旧ならずとされているが、玉野市役所に問い合わせると車で行けないとはいわれなかったが、徒歩の方を薦められた。車で上りかけたけど通行止めでUターンする場所がなくて苦労し諦めた。ここまで来させておいてどこで向きを変えるのよ。

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徒歩で上ったことのある、歩こう会で鍛えている友人は「行けますよ」と軽く言うけれど、これから春になると蛇が出るから寒いうちにと脅かす。もうひとりの友人も他の山で蛇が何匹もどくろを巻いているのに出くわしたと脅かされた。
蛇が怖い私は約20年前に常山に何回も車で上がっている先輩に写真をお借りして掲載しました。車で行けるようになれば自分の写した写真に差し替えます。きっと20年前の方が保存状態はいいと思います。