戦国の三梟雄といわれた宇喜多直家を伯父に持ち、父親は直家の弟の忠家ないしは春家といわれる宇喜多与太郎基家は1562年に生誕している。
直家には、女子が4人いたがそれぞれの悲惨な生涯を送っている。直家は甥の基家を養子とした。

1581年4月秀吉から宇喜多家に使者が来た。「近年のうちに毛利を征討する、その準備として宇喜多家は児島を堅固に守備するとともに備中をも制圧するように」と。

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この1581年、2月14日に直家は病没していて、宇喜多与太郎基家、宇喜多七郎兵衛忠家が応対に出、作戦計画に参戦する旨を答えた。

しかし、このことを芸州の忍びの者が聞きつけ、安芸に帰って報告、毛利輝元、吉川元春、小早川隆景は評定を開き、稗田元清を大将として二万の兵を派遣児島に進出させ、八浜の西四十町ばかりの麦飯山の明石源三郎を討ちとり、麦飯山に砦を築き、まず、児島を制圧しようと計画した。

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麦飯山、背後には常山、八浜の両子山に挟まれている
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麦飯山の水源麓の殿川井戸
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この戦いで闘死した明石源十郎の辻の堂の五輪塔

この毛利の児島進出は、岡山傘下の戸川氏の常山城から岡山へ注進されたので、岡山城では18歳の宇喜多与太郎基家を大将として戸川兵衛門、岡平内などの諸将が大挙して渡海した。

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松尾鼻の海辺に村上水軍を見張ったという穴が残っている。

八浜城を本拠地に、八浜の手前に布陣した。

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金甲山から見た、八浜城のある両子山
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八浜城には土塁の遺構が残っている

1581年8月22日の朝、岡山勢が麦飯山の城近くに馬草を刈りに出かけたことをきっかけに、大崎村の柳畑という浜辺で、大合戦になった。

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大崎の柳畑古戦場跡、このあたりで戦闘が始まったとされる

基家側は、毛利方に追われ引き取りかねていたところを采配を振るって味方を引き揚げさせようと、馬に乗り下知していたところ、どこから撃った弾か鉄砲の流れ弾が兜を撃ち抜き基家は落馬して即死した。(備前軍記より)その流れ弾は見方が撃ったとも言われているようだ。

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与太郎神社

その死に方については、基家は当時脚気(脚気は大正の頃までは結核と並ぶ原因不明で死者も出るおそれられていた病)を患っていて足が不自由であったとも。あるいは足を怪我して笹林に逃れて隠れていたところ、毛利方に問い詰められた農民が目で場所を知らせて討ち取られたという話も伝わっている。
場所を教えて悔いた人らがその場所に弔うため神社をつくり、足の神様、与太郎様として後世崇めるようになったとも。

基家が身つけていたのものとされている甲冑(紅糸素懸銀箔押二枚胴具足)が、墓所の大賀島寺に奉納され、現在岡山県立博物館が保管している(修復されて平成6年県の重要文化財に指定)というので、聞いてみた。その派手な甲冑は来年までずっと公開する予定はないそうで残念。実際に見てみないと・・・

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RSKのTVで博物館長のお話「頭の部分に弾で撃ち抜かれたような痕がある。基家は八浜合戦で死亡したといわれている」と。
18歳という若き青年が戦場で散っていって、さぞかし無念であっただろう。基家の墓所は八浜の与太郎神社にあるとも、大賀島寺にあるとも言われている。大賀島寺には直家の祖父宇喜多能家の墓がある。どれが誰のものか全く説明もなし。

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宇喜多一族の墓とされる五輪塔
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現在の大賀島寺ひっそりしていた。聞いてみようと思ったけれど誰もいなかった。


結局八浜合戦は、備前勢の大将討死とみた毛利勢は大挙して襲いかかってきたが、後世八浜七本槍と呼ばれる七人の勇士の活躍のおかげで、結局毛利勢が引き揚げた。はじめから七本槍の武勇を誇るものならば、大将の基家が最前線で撤退の指示をしている前から、先にたって戦っていてもいいはずだと思うが・・・・七本槍はのち、常山城で自分一人がいかに活躍したか報告し合っている(備前軍記より)。戸川氏、岡氏など手柄を立てたとして重用されて宇喜多家の重臣となっていく。

宇喜多家は1581年嫡子八郎が9歳で家督を継ぐことが許されている。のち秀吉の養子になり可愛がられて元服の時には秀の一字をもらい、秀家と名乗る。

1582年3月15日信長の命で毛利追討の命を受け秀吉が姫路を出陣し、備中高松城の水攻めへと続いていく。