戸川氏の始祖戸川秀安は、備後の国門田に生まれる。幼くして父を失う。長じて宇喜多直家に仕える。宇喜多氏が備作の太守となるや、備前児島の常山城主となり、宇喜多家の重臣として活躍した。晩年は友林と号し常山山麓に隠れ世を去った。

子の達安(みちやす)は秀家の執政となるが、宇喜多家家臣団の宇喜多騒動で宇喜多左京亮、岡、花房らが公然と秀家に反抗した。調停に乗り出したのが徳川家康で、達安も、この騒動で備前を去り家康に従い関東に下った。関ヶ原の戦いでは東軍として参陣し西軍石田光成の重臣島左近を討ち取ったという。この戦功により備中国に2万5千余石を賜り、庭瀬に居城を構え諸侯に列せられる。
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戸川家の家紋入り軍杯
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関ヶ原での戸川達安の活躍
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早島の戸川記念館に資料

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達安の兜にはうさぎがあしらわれているのは、うさぎは子沢山だからだそうで、子供は13人いる。本物である。レプリカかと聞いてしまった。

達安の妹は宇喜多左京亮に嫁いだが早世した。左京亮とは大坂冬の陣で千姫を助け出したが千姫をもらえなかったあの坂崎出羽守のことである。八浜合戦で18歳で戦死した与太郎基家の弟にあたる。妹の死を悼み妹尾に盛隆寺を建立し、その知行所の住民に真言宗であろうとも皆日蓮宗に改宗させた。「妹尾千軒皆法華」という言葉が残っている。

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達安は1627年に生涯を終え盛隆寺に眠っている。

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遺領は嫡子正安が継ぎ、寛永5年弟の安尤に3400石、安利に3300石を分地し、早島知行所、帯江知行所をおこさせ旗本に列せられた。

こうして戸川家は旗本として、撫川、早島、帯江、妹尾、中島の各知行所をおさめ、長崎奉行、勘定奉行、などを務めた人もいた。旗本は江戸詰めで、領地は一部の家臣と村役人の手にゆだねられ、知行所内に置かれた陣屋を中心に政務を取り仕切り明治維新を迎えた。

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妹尾陣屋跡の井戸の遺構

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帯江陣屋跡・現在は倉敷制帽の会社の敷地内にある

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早島陣屋の遺構・現存するのは石橋と石垣のみ

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早島の宇喜多秀家の宇喜多堤、この堤防上に町が栄えた

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早島の港の遺構・今は住宅地だが堤の外は海だった

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庭瀬城跡、撫川城とはすぐ近く

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撫川城跡

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撫川城全景

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庭瀬の古い町並み、以前よりは更地が増えていて寂しい

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再建された常夜灯

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味噌屋さん

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大正ガラスの薬屋さん

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庭瀬往来

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常夜灯庭瀬にて・水郷巡りのようで楽しい町お薦め

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