「備前軍記」に書かれる宇喜多直家は、1529年に宇喜多興家の子として生まれ、幼名を八郎といった。祖父の能家は1534年直家5歳の時、砥石城(邑久町豊原)において、高取山城(邑久町東谷)の島村盛実の夜襲にあって自害した。

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宇喜多能家の墓所のある大賀島寺のある山から、真ん中の山が砥石城、左上が高取城

この難を逃れた興家と八郎父子は鞆津などを彷徨い、備前福岡の豪商阿部善定のもとへ身を寄せた。ここでの生活は、「常山紀談」によれば牛飼いとして働かされていたとも書かれている。そして善定の娘と興家の間に忠家・春家が生まれている。この二人は同一人物とされているが。

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「一遍上人絵伝」に書かれている、鎌倉時代の栄えている福岡の市の様子
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福岡千軒といわれ当時は川の水運に恵まれ栄えていて、今も立派な町並みが残っている

しかし1536年慣れない生活からくるストレスからか、八郎6歳の時、興家は病没している。墓は備前福岡の妙興寺にある。

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福岡の市から妙興寺を見渡した辺りに豪商阿部家があったそうだ

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妙興寺には、黒田官兵衛の祖父の墓もある
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宇喜多興家の墓

八郎はその後叔母のいた笠加町の尼寺で育てられ、不遇の幼少期を過ごしたと伝えられる。

1534年八郎は生母の努力により旧主である守護代(備前の守護赤松氏の家臣)浦上宗景に仕官し、翌年元服して三郎左衛門直家と名乗り、15歳の初陣で兜首をとった武功や祖父能家の旧功により、乙子城と三百貫の知行、足軽三十人を給わった。このころ、家来と野盗、辻斬りをしたと書かれている。

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乙子城は河口にあり児島半島がみえる要衝の軍事拠点
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1549年直家は能家ゆかりの砥石城を主命により攻め、浮田大和守を討ち、その功績により新庄山城(岡山市竹原)を預けられた。

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新庄山城から、亀山城はすぐ近くにある

1559年かねてより謀反の風聞のあった亀山城(沼城)の城主中山信正と祖父の仇である島村盛実を酒宴に招かれた時に討ち取り、その所領の過半を加増され、亀山城を居城とした。

妻富は夫が実家の父中山信正を殺したとの凶報をきき自分も自害した。

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亀山城は沼城とも呼ばれ、小高い丘の山
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直家は中山信正の娘富と結婚して4人の娘に恵まれているが、直家はそれぞれの嫁ぎ先の婿を滅ぼしている。娘は攻略しようとする相手に安心させる、戦略の道具としか見ていない。

長女は金川城主松田元賢に嫁ぎ滅ぼされ共に自害、次女は松田家の配下の武将伊賀久隆に嫁ぎ夫を殺され精神錯乱後、戦火に焼かれた。三女は天神山城で父直家に攻められ、夫浦上松之丞に殉じ自害、四女は東美作の三星落城後夫は大庵寺でいのちを絶った夫の後を追ったとも云われている。「宇喜多の捨て嫁」に詳しく書かれている

以後直家は浦上宗景の指示を待たず、周囲の諸城を攻略した。竜の口城の穝所元常は男色好きということで、小姓の中の美男の岡清三郎に命じ、寝首を掻かせている。のち清三郎は岡剛介と名乗りこの後も、ずっと直家に仕えている。戦国時代には戦場には女性を連れては行けなかったので男色はよくあったといわれている。

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亀山城の上
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亀山城の地図

その後、備前の国津高郡下戸井村出身の絶世の美女、名はお福(勝山の高田城主三村貞勝22歳で自刃の未亡人)が1566年直家の差し向けた玉の輿に乗って亀山城に嫁いできた。直家38歳お福21歳のことである。6年たって1572年正月14日城中で男の子のちの秀家が生まれる。

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お福さんは秀家とともに大坂に行っているはずなのになぜかお福のものと云われている五輪塔が朝日高のそばにあった。

長くなるのでここで後編に続くということに・・・