勢力拡大を続ける宇喜多直家は、高梁の松山城にあった備中の雄・三村家親と抗争を構え、1566年美作に侵入した家親を計略により久米南町の興禅寺にて鉄砲で暗殺した。家親はお福さんの元夫を殺したので仇を討ってもらったことになる。1567年、親の復讐を誓う備中松山の三村元親が2万の兵を率いて備前に侵攻、三手に分けて攻め入った。直家は5000の兵で迎え撃った。
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操山の上にある明善寺城の跡、建物はないが巨石は残る
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登るのにかなり苦労した、皆さん手にウオーキングポールを持っておられる
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石垣

戦場は明善寺城の麓である、沢田村あたりで、高島、幡多、長岡辺りには1万5千のおびただしい死者がでた。
この戦いを明善寺合戦という。

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操山の麓の恩徳寺、沢田にある
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恩徳寺にあった絵馬・何時頃のものかは不明
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中島にある首塚、江戸時代に当時の庄屋さんが建立
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今在家天満宮の首塚、経塔宮
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天幡宮の絵馬
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田中神社、もとは第六高等学校の敷地内にあった、首塚
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長楽寺には、田んぼの片隅にあった塚が集められているというが
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この明善寺合戦は直家にとっても生涯唯一の正攻法で敵に当たり、最も華々しい勝ち戦となり、備中勢の「明善寺崩れ」と長く語り伝えられた。元親は4000の兵を連れ高梁に戻った。しかしのち松蓮寺で自害している。

1570年直家は金川城主松田元輝・元賢親子を滅ぼし、直家の長女も夫、元親の後を追い自害している。岡山の城主金光宗高は無理やり自害させ、城を奪い、岡山城(現在の岡山城ではなく石山の地にあったという)を大改造し、1573年には亀山城から移って、家臣や福岡、西大寺、児島の商人を移住させ、城下町の礎を築いた。そして1577年浦上宗景は重臣の明石行雄等の離反にあい、天神山城落城、宗景は追放された。この時直家の三女の夫松之丞は自害している。

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天神山を望む、「和気美しの森」からは、横に歩けば楽
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岡山県和気町にある石門別神社の傍に登り口
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よくこんな山の上で歩きにくいところに砦を作ったものだ
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天神山城の上からは吉井川が見渡せる、下を走る車も見える
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和気町田土の棚田
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春になると、まむしや蛇が出るんだ

ついに備前、美作一帯を統一し戦国大名となった。

やがて、織田信長の中国路攻略の命を受けた、羽柴秀吉が播磨に進出してくると、初め直家は安芸に根拠をもつ毛利氏とともに抵抗したが、1579年には織田氏と和睦し毛利氏と対立した。この年四女を結婚させた、後藤勝基を滅ぼす。

直家は1581年に享年53歳で病没死因は「尻はす」といい出血を伴う悪性腫瘍か痔であったという。
「備前軍記」によれば「濃血出づることおびただし、是をひたし取り衣類を城下の川に流し捨てるを、川下の額が瀬にて、乞食共度々拾いけるに、二月中旬より、此穢れたる衣類流れざるより、直家はや死去ありしかという事を、外にて推量し、皆之を沙汰しけるとぞ」

直家の死は暫く隠され1582年1月9日が公式の忌日とされている。

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岡山寺には、伝宇喜多直家の墓
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光珍寺には、戦前には宇喜多直家の木造があったが、岡山空襲で焼失

後世に烏城と呼ばれる天守閣を中心とした岡山城の築城は、織豊政権の下で、五大老に列せられた嫡男宇喜多秀家に委ねられる。

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宇喜多秀家築城当時の石垣