「備前法華に安芸門徒」という言葉は備前地域には日蓮宗が、広島県西部には浄土真宗が多いという意味で、岡山県南部には、特に備前地域には日蓮宗諸宗派の中でも不受不施派が多い。

不受不施とは受不施と違うのは、日蓮宗を信仰しないものからの布施は受けない、他宗の寺院。神社には参詣しない、法華経を釈迦による唯一絶対の教えとして教説を厳しく守る。というものである。豊臣秀吉の文禄4年、京都方広寺での千僧供養への、出仕を拒否した日奥以来、しばしば政治的支配者からの弾圧をうけた。

邪宗門として徳川幕府が本格的に禁止したのは、寛文5年(1665)からで、岡山藩主池田光政(鳥取から国替で藩主に)は宗門改を寺請でなく神道請で行い、領内寺院1044のうち563の寺院整理をおこなった。当時の領内の宗派の割合は真言宗38・7%、法華宗38・4%・・・であったが、その中で不受不施寺院を徹底的に弾圧し、313の寺院を廃止、僧侶585人を追放した。

瀬戸町は信徒が多い地域で、宗堂山妙泉寺住職であった日鏡は、この弾圧によって池田藩に呼び出され毒を盛られて死んだ。このことを悲しんで桜の花弁の三分の一が屈曲してカール状になった、宗堂桜が名物になっている。

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何とこの赤い石は、棺桶の蓋で、その前のは棺桶だそうだ
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岡山藩の弾圧に抗議した矢田部六人衆(本久寺の日閑上人及びその弟子5人)はその代表例で、寺請を拒否して入牢していた一族の赦免を要求した、六人が領民への見せしめとして、旭川の河原の柳原処刑場で斬首され、のこった信徒家族ら28人は国外追放となった。

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和気町矢田部にある供養塔
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岡山の柳原処刑場に建てられた矢田部六人衆の碑
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旭川の土手から河原をみる
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柳原処刑場の跡
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しかし禁止されても僧侶・信徒たちは簡単には諦めることはなく矢田穴観音という密かに信仰を守った遺跡がある。

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岩をくり抜いた中にお堂があった、かなり高いところにあった
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その後、非合法活動に入ったが、明治9年不受不施派再興の公許を得て、御津町金川に医師旧難波抱節邸の一部を妙覚寺として不受不施派の拠点とした。

難波抱節は、江戸末期に華岡青洲らに学び、麻酔を使った手術をした先駆者。
多くの弟子を教育した。この門に当時の遺構が残っているそうだ。
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妙覚寺、何年か前に火災にあった
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