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天正7年(1579)宇喜多直家が毛利輝元と断交し織田信長に服属して以来、備前・備中境目周辺は織田・毛利が睨み合う緊張地帯となった。毛利氏は清水宗治に髙松城を預け、境目諸域に直属家臣や芸備国衆を派遣した。
天正10年(1582)単独で毛利氏と戦っていた宇喜多氏支援する形で羽柴秀吉率いる織田軍が備中国に進出する。秀吉は地形や敵情を把握すると、冠山城を包囲し激戦の末これを落城させた。

冠山城・下足守にあり高さ40mの山
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この時の秀吉軍2万、宇喜多軍1万に対し毛利勢は3600名といわれている。城主林重真は4月25日自刃した。膠着状態だったのに、城内出火がきっかけで戦乱となったといわれる。

毛利方の竹井将監の早島城
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早島城内にある竹井将監の五輪塔
冠山城で、一番乗りしてきた加藤清正(当時21歳)と一騎打ちして敗れた
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毛利軍が積極的に動かなかったことに失望したのか周辺の日幡城・宮路山城などの七城では撤退・離反が相次ぐ。

宮路山城
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足守川そばの日幡城
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この結果開戦後1ヶ月ほどで髙松城を孤立させることに成功した。ところが清水宗治の守備する髙松城は、周囲が低湿地に囲まれ足場の確保も容易ではなく力で攻めれば大きな損害は計り知れない。秀吉は懐柔も行ったが拒絶されている。

湿地帯を思わせる地
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そこで秀吉の軍師黒田官兵衛は髙松城の立地条件を逆用し水脈を止める地点に大型の堤防を急造し水攻めにする、奇行を敢行した。

堤防の高さを示す目安
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蛙が鼻の土塁の上から
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赤い部分に大堰堤を3KMにわたり作った
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足守川の水の取水口・水量はこの時期少ない
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足守川
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5月1日に決定、5月8日工事着工から12日で、約3KM基底部24m高さ8m上幅10mの大堰堤を完成させた。農民に1俵の土、100文、ないし米1升という破格な高値で買い取った。そして梅雨時も幸いして足守川から水を引き込み水流は城の外部土塁を超えて城内に侵入し、籠城衆が屋上に避難するありさまとなる。

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髙松城本丸を望む
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ここに至って宗治は抗戦継続の不可を知り、自らの命を引き換えに籠城軍の助命を秀吉に願い出て、6月4日に船上で切腹(46歳)同乗の3人も自害し、介錯をおこなった国府市正も自刃した。

船上で自刃した跡
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同乗した家臣が自刃した跡
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宗治の首塚
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民家の一角にある胴塚
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城は織田軍に接収された。水浸しの戦場を前に身動きが出来なかった、毛利輝元は6月2日の織田信長の死を知らぬまま和議に応じた。実は6月3日に明智光秀からの密書を持った使者を秀吉側が捕えており、本能寺のことを先に知ってしまったという、情報戦があった。

毛利方が本能寺の変のことを知ったのは6月5日昼、秀吉の中国大返しで、秀吉が去った翌日であった。
この高松城での戦いは岡山の戦国乱世の終焉となった。