現在の津山城は備中櫓が再建されている
DSC_1635

初代藩主、森忠政の像・森蘭丸には似ていなかったに違いない
DSC_1630

津山藩初代藩主、森忠政(本能寺の変で戦死した森蘭丸の弟、18万6500石)からかぞえて90余年たった元禄元年(1697)4代藩主森長成は江戸藩邸で死去、嗣子がなかったため森家はお家断絶。

次の藩主は譜代の松永長矩(のち宜富)を登用したが、9か月の間幕府の直轄地、天領扱いでこの間は年貢が五公五民に。ところが元禄11年1月松平長矩が着任すると、森家時代と同じ六公四民になった。一度五公五民の味を知った農民は一揆の決行を決意した。

中心になったのは高倉村の大庄屋、堀内三郎衛門であった。まず妻子を処刑から救うため離縁した。子供2名は助かった。
元禄11年11月11日に300~400人が津山城下へなだれ込んだ。

下高倉の堀内三郎衛門の生家跡にのち顕彰碑が立てられた
DSC_0375

DSC_0371

指導者は全員捕われ8人は即刻藩の処刑場、兼田河原で首をはねられ、さらし首に遺体はそのまま放置された。

兼田河原に真っ赤なポピーが悲しげに、1輪だけ咲いていた
江戸時代ずっと刑場とされていた、山界萬霊塔というところ訪れるのにはいささか勇気が要った
DSC_0348

千人塚・加茂川べりの街道で人通りが多いところに見せしめという意味で処刑場がもうけられた
DSC_0343

勿論、年貢の減免など聞き届けられたはずがない
この一揆が最初の百姓一揆で「元禄一揆」とよばれた。。

津山市高野の日蓮宗萬福寺
DSC_0360

萬福寺内の昭和8年に建てられた堀内三郎右衛門の碑
DSC_0357

堀内一族のお墓で処刑された4名を含む
DSC_0361

堀内三郎右衛門さんの一族のうちの、弟さん2名と、長子の4名が犠牲になっておられる
痛々しい・・・
DSC_0362


萬福寺から、高野駅が望める
DSC_0365

高野駅から、萬福寺右寄りを望む
DSC_0368

これを皮切りに明治まで美作では一揆が20数回あった。