優秀で、超有名な優れた人なので、取り上げにくい人物であるが、私が見聞きした人物像を取り上げてみたい。まず山田方谷の曽祖父は山田家の跡取りを出家させようとした住職を斬殺して自刃し全財産を没収され、妻子は所払いとなり、その19年後に昌益の子正芳(方谷の父)が現高梁市中井町西方への帰村を許された。

西方村へ入る峠は桜が綺麗だった
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正芳の長男五郎吉は家を弟に譲り、農業と菜種油の製造販売で財をなし藩侯より長百姓を命ぜられるほどになる。五郎吉は1805年江戸時代の末期に生まれた長男の方谷の賢さに期待して、学問を身につけさせるため、5歳から新見の丸川松隠の塾に預けた。が14歳と15歳で父と母を亡くす。

記念館にある、子供時代の神社に奉納された字、親もかなりの教育パパママのようだ
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成人した時の肖像画だが、修正なしのものは反っ歯だったそうだ

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方谷の非凡な学才が藩主板倉勝職の耳に達し、方谷21歳の時二人扶持(1日に玄米1升)、4年後には苗字帯刀を許し、藩校有終館の会頭を命ずる。

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その後京都や江戸に遊学し32歳で帰郷、しかし方谷17歳の時に結婚した進との間に長女が誕生しているが11歳の時天然痘で亡くなっている。妻の進は長年の心労のため心を病んで新見の実家に帰る。

牛麓舎のあと、尾根小屋から近い
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有終館と牛麓舎で教育に専念していて、40歳で藩主勝職の世子22歳の教育を任されることになった。世子は桑名藩主松平定永の第8子で寛政の改革の定信の孫で5年後に藩主勝静となる。若い婿養子の藩主と農民出身の元締役兼吟味役の主導で次々と財政改革を断行していく。

有名な財政改革は今までの、藩札を集めて、河原で燃やし信用を回復したとか。鉄で備中鍬を作り出し全国に売り出し、多大の利益を生み出したとか。財政の立て直しに成功。

頼久寺のすぐそばに住んでいた
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家庭的には別居していた進とは離婚し、松野と一緒になり、小雪という子供が生まれたが、留守中に彼女は他の藩士のもとに嫁いで子供を残して去った。あと方谷は緑を迎えている。

小雪は暗殺の不安から、上市の矢吹久次郎に預けていたがこの家の長男と結婚後、早死にしている。職を退いて長瀬に居を移してからも度々小雪に会いたさに上市に通っていた。

長瀬塾は現在の方谷駅のすぐそば
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長瀬塾の絵
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お茶屋、高梁に来た時にはここに滞在したという。河井継之助も泊まったという
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明治4年の廃藩置県により、高梁藩は廃止となり、方谷は長瀬(現在の方谷駅のあたり)に塾を開いて教育に専念、はじめは10人が半年後には50人になり手狭になったため、明治3年10月に小阪部(新見市大佐町)に引っ越し、矢吹久次郎が購入していた代官所の跡地で200人の塾生を抱える。小阪部は母の先祖の地であった。母の実家の西谷家のゆかりの金剛寺境内に方谷庵を建ている。
小阪部の塾から見た風景
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小阪部の金剛寺
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金剛寺境内にある方谷庵
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明治6年和気の閑谷精舎を再興、以来春秋1ヶ月ほど滞在して陽明学などを講義、閑谷から二里半程のところに方谷が敬服していた熊沢蕃山の居宅の近くに、方谷のための草庵が用意された。しかし漢学に偏っていたため受講者数が減少し4年で休学してしまう。

閑谷学校の講堂
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備前市蕃山の方谷のための住居・約10Km離れている。18歳の三島洲がついていけないほどの健脚であったそうだ。
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新幹線のすぐそばで賑やか、熊沢蕃山の住居も見える位置
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明治10年、6月26日慢性水腫が悪化し73歳で小阪部にて、死去。ご遺体は船で長瀬に1泊し、29日西方村で千余人の会葬者によって葬儀が行われ埋葬された。

方谷園
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方谷が眠る西方村の墓地
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弟子に、東京に出て行った三島中洲(二松学舎の創始者)や河井継之助がいる。
継之助が海路玉島で宿泊したといわれる旅館がちょっと前まで残っていたのだが、残念ながら取り壊されていた。

真ん中の木造三階建てが児島屋、もっと玄関も写しておくべきだった。2006年撮影
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取り壊された跡には碑のみが残る
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