「知恵泉」という番組で、菅原道真が取り上げられていたので神様になったという点では興味がないが人間的な面の菅原道真をまとめてみた。

まず、「学問の神様はオタク?という始まり、超エリートの挫折と改心、上司の失敗に物申す術。
栄光のあとの悲劇、左遷。」

生誕は京都、845年8月1日丑年生まれ、学問で身をたてる文人の家に生まれ、幼少より詩歌の才能に秀でており、18歳で文章生となる。

京都御所
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その当時の学問のエリートで、数々の官職につき出世し33歳で文章博士となる。894には遣唐使に任ぜられるが、廃止を進言した。当時は普通の貴族は妾も沢山おり、道真も遊女遊びもしているそうで子供は23人余以上いるという。
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ところが42歳の時文章博士を解任され、讃岐の守に赴任する。
讃岐に赴任して、888年の大干ばつで人々が苦しむ姿を目の当たりにし考え方が変わったという。国司として白の死に装束で坂出で雨乞いをした場所があるという。民の役に立つには、文章を書くことしかないと悟ったという。
そして、赴任1年後に都で阿衡事件がおきた。都で関白藤原基経が「阿衡の任をもって卿の任となす」と役職をボイコットしたのに対し、基経に意見書を送り、聞き入れて基経が復帰した。上司基経に物申した訳である。

讃岐の4年の任務のあと46歳で帰京、蔵人頭、式部省、中納言に出世。宇多天皇の信任を受け、外戚として権威をふるっていた関白藤原基経亡き後、道真は長女を宇多天皇の女御とし、三女を宇多天皇の皇子斉世親王の妃とするなど皇族との姻戚関係の強化を進めている。宇多末期には藤原時平と並ぶようになり、次の醍醐天皇のとき55歳で右大臣に、学者としては異例の出世をした。

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しかし、間もなく醍醐天皇を廃して、娘婿の斉世親王を皇位につけようと謀ったと讒言され、901年大宰権帥として左遷される。背景には時平による讒言説、宇多天皇と醍醐天皇の対立が実際に存在していて、道真が巻き込まれたという説なとがある。

道真が京の都を去るとき詠んだ「東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」は有名。その梅が一晩で道真の住む屋敷の庭に飛んで行った、飛梅伝説がある。

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道真は大坂に滞在した。

大坂天満宮
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牛窓に立ち寄って、自分が讃岐に赴任していた時のことを懐かしんで歌を詠んでいる。
「磯山の峯の 松風通いきて 浪や引くらん 唐琴の迫戸」牛窓天満宮に句碑がある。

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牛窓天満宮から遠くの屋島が見える
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備前の八浜に硯井天満宮という史跡があって、ここにも立ち寄ったらしく
「海ならず たたえる水の 底までも 清き心を 月ぞ照らさん」と詠んでいる。

硯井天満宮・玉野市八浜にある
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左遷後は大宰府榎社で暗殺に怯えながら、謹慎していたが、2年後に亡くなった。903年2月25日、享年59歳であった。門弟である味酒安行が亡骸を牛車に乗せて進んだところ3Km先で牛が動かなくなり、これは道真公の意思であるとしこの地に埋葬された。その位置が大宰府天満宮という立派な社殿が勅命により建立された。「ぶらタモリ」で解説していた。

大宰府天満宮
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梅が枝餅

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道真の死後政敵藤原時平が909年39歳で病死。913年道真失脚の首謀者の一人とされている右大臣源光が狩りの最中泥沼に沈んで溺死。醍醐天皇の皇子で東宮の時平の甥死去。ついでその息子で皇太孫が死去。
朝議中の清涼殿が落雷で多くの死傷者がで、それを目撃していた醍醐天皇も体調を崩し、3か月後に崩御。

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こうして、道真の怨霊を雷神と結び付けられ、天神様としての信仰が広まって行った。さらに天神は学問の神として信仰されるようになり、全国に天満宮が建立されている。

京都北野天満宮

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京都上七軒には花街がある
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