今から約260年まえ、享保11年(1726年)美作津山藩を揺るがせた山中一揆が起きた。その痕跡は津山市二宮の高野神社のそばの国道(旧出雲街道)沿いに六体の首のない石地蔵がある。このお地蔵さんは山中一揆の指導者、徳右衛門ら6人の供養のため民衆によって立てられたものである。

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吉井川が流れている
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山中とは旭川の上流、真庭郡湯原温泉を中心にt蒜山方面までも含む広い地方のこと、当時は津山藩領であった。享保11年津山藩勘定奉行久保新平がいきなり本年貢4割の追加に加え、年貢の納期を1ヶ月早め、農民の鍬、鋤を封印し10月19日の年貢完納まで、麦の作付も禁止した。なぜ久保がこのようなことをしたかは、藩主松平浅五郎当時11歳が明日をも知れぬ重病で、津山藩は断絶するかの危機、藩では重病を秘密にして、年貢の早取りをしようとした。11月11日幼い藩主は死に、お家断絶は免れたが、知行は10万石から5万石に半減、した。

10月19日藩の命令通り、全年貢の大半をすでに納めていた農民は、山中は津山藩ではなくなるのではという噂が広がり、山中一揆が爆発、農民に慕われていた徳右衛門を先頭に3000~4000人ともいわれる。手には鉄砲、竹槍、斧などをもち喚声をあげながら、三坂峠を越え久世町に入り、町はずれの大段芝(真庭市台金屋)と呼ばれる高台に陣取って藩と対決した。

台金屋の薬王寺にお邪魔して山中一揆のことをお聞きしたがわからないとのこと、詳しい人は死んでしまったとか・・・
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台金屋は場所的には久世中学校の北の辺りという答えなのでこの愛宕神社の高台かな・・・?
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しかしこの時は津山から駆け付けた藩の代官三木仁右衛門、山田文八の二人が一揆の指導者徳右衛門らと五日間の交渉で農民の要求をほとんど認め、今年の年貢は既納分だけで完納とみなし、4割の増税もやめるなど下手にでた上、一揆のきっかけを作った勘定奉行の久保は失脚させ入牢を確約したので大一揆も終止符が打たれたかのようにみえた。

山中地方が津山藩から離れ天領になると、納めた年貢は取られ損になり新しい領主から再び年貢を取られる恐れがあると再び一揆ののろしをあげ、村役人、豪商などの打ちこわしをはじめ、一時はこの地方を農民が支配するようにまでなった。たまりかねた津山藩は正規軍を出し、武力鎮圧を開始400人が農民と対決、7日間にわたる激闘の末、指導者の徳右衛門、弥次郎などを捕え一揆は漸く集結した。

徳右衛門の故郷に建てられた碑
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碑のある丘からの眺め、徳右衛門さんも眺めたであろう、湯原温泉の南
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弥次郎は生誕地の裏山の洞穴に隠れていたが、愛犬しろが弁当を運んでいたところを役人に見つけられたという
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樋口弥次郎の生家、現在は立て替えられている
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義民樋口弥次郎の碑と傍に愛犬の墓が
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弥次郎の愛犬しろの墓
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藩の記録によれば147人が逮捕され、37人が即刻打ち首、獄門、他は入牢。
指導者である徳右衛門、弥次郎など六人は津山で取り調べののち、院庄の滑河原で処刑された。

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津山市院庄の国道沿い、このあたりが滑河原処刑場か
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真庭市大林寺の妙典塚
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蒜山社田義民の墓があるあたりの風景
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社田義民の墓
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田部の義民の墓、真庭市蒜山西茅部に22体」の地蔵さん
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東茅部の辺りの風景、小高い丘に大森父子の墓が
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大森十左衛門父子の墓
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凱旋桜の名所、その外れの辺り
新庄川の河原に今井河原処刑場の立て看板がひっそりとあり、ここでは山中一揆の時5人が処刑された
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首切り峠とは、恐ろしそうな名前だがどういう意味だろうかと調べると、山中一揆の犠牲者を見せしめにさらし首にしたという峠
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首切り峠
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山中一揆は江戸時代の三大一揆といわれている。何ともいいようのない悲惨で、悲しい歴史が岡山県にあったことを、是非知ってほしい。