吉備津神社の門前町宮内は江戸幕府に、春秋2回30日にわたる大市の開催を認められ、芝居興業も開催され大勢の人が集まるようになった。旅籠・飲食店が次々とでき飯盛奉公人を雇い入れる許可が幕府に認可されたのがもとで宮内遊郭ができた。PICT3132

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文化・文政の頃には茶屋・旅籠が軒をならべ100人(300とも書かれている)を超す遊女・芸者が住み宮籤や賭博が盛んに行われた。
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鳥居のところから左側が宮内遊郭だったそうだ
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吉備津神社の回廊の北側の駐車場の辺りに最初の芝居小屋があったといわれる。PICT3131

岡田屋熊治(次と書いてある書物もあるがお墓は治と読める)郎は安永7年(1778)宮内の片山町の生まれ、柏屋という料理店を営んでいたが、青年期には家は左前となり、籠を売る行商をしながら家計を助けた。人望をかわれ頭角をあらわし、江戸市一家が板倉騒動に関係し解散に追い込まれ、跡目におされ42歳で親分になった。宮内のあらゆる興業を取り締まり、大きな賭博を経営、富籤の発売を行っていた。熊治郎は吉備津神社の下にある青竜の池の北の宮内字辻小路に壮大な屋敷を構えていた。彼の興行師としての名前は天下に知れ、旧社務所の門はその時の興業収入の一部を寄進して建てたものである。DSC_0121
大きな常夜灯は天保2年正月5日に岡田屋が寄進したものであることがはっきり書かれている。
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この田んぼの辺りには芝居小屋があったという。PICT3136
ちょうど2005年今から14年前に、遊郭探訪を始めたころ、ひとりでうろうろしていると地区の長老の方が親切に色々教えてくださった。そのお話によると、「宮内騒動というのがあってその発祥地、相撲取り3人が小屋の番人、小天狗という子分に殺された。そのために鍋島藩の行列が板倉宿へ入れず足止めされた。子分の首を要求されたが岡田屋が出てゆき、見事解決したと。

大石内蔵助が備中高梁の城明け渡しに行く途中1500人?連れて泊まった。」と聞いた。

岡田屋は清水の次郎長とは違って人物温厚で、人々を敬服させる。舞台のトラブルの時も聴衆に頭を下げて事なきを得て喝采された。生涯一度も刀を抜いたことがなかった。利益は子分に分けて自分は借金していた。子分も100人くらいはいたが暴れん坊ではなかった。
晩年は悠々自適し嘉永8年(1855)正月8日に75歳でこの世を去った。ちょうどペリーが浦賀にやってきた翌年である。彼のお墓も長老さんが案内してくださった。14年ぶりに記事にしたのは、その時の思いが残っていたからか。
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幕末の動乱期に近づき、宮内の歓楽街も衰微に向かった。DSC_0129
2020年1月の宮内、あの時の長老はまだおられるだろうか。だあれも出ては来られなかった。
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