宇喜多秀家のあとに、岡山城にやってきたのは小早川秀家である。DSC_0099

秀家は天正10年(1582)、木下家定(北の政所、高台院の兄)の五男として、近江国長浜で生まれた。天正13年叔父羽柴秀吉の養子になり、高台院に育てられた。わずか7歳で元服、丹波亀山10万石を与えられた。12歳にしてアルコール依存症に。Kobayakawa_Hideaki_cropped

文禄3年秀吉に秀頼が生まれたことにより、秀吉の命で小早川隆景と養子縁組をさせられ小早川秀秋となった。慶長2年(1597)慶長の役では元帥として朝鮮にわたり、隆景の死により52万石小倉城主となる。慶長5年(1600)関ヶ原の合戦では西軍として松尾山に布陣していたが、叔母の高台院の内示により西軍を裏切り、山の下に布陣していた大谷吉継の陣へ突入、東軍に勝利を導き、その功により、宇喜多秀家の領土であった、備前と、美作二国52万石の大主に出世した。
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秀秋が入城以来、政道が乱れ、放鷹、殺生を好み罪なきものを殺すこともあり、稲葉、杉原の宿老が讒言したところ、逆恨みして家来に命じ討たせようとする。なだめられたが行き違いで杉原は二の丸から本丸にいたる廊下門で切り殺された。DSC_0096
稲葉正成はこの様子を見てあいそを尽かし妻子を連れて逐電した。稲葉正成の後妻が、のちの徳川家光の乳母春日局である。

秀秋には狂気で不常の行為が多かった。谷淵陽一氏の「岡山の殿さま群像」からの引用では、「鷹狩で雨宿りした民家で、小姓が囲炉裏の火をおこすのが、なかなか燃えないと腹を立て、小姓の首を打ち落とした。慶長7年の鷹狩のさい、百姓を斬ろうとして抜いた刀で百姓を傷つけて喜んでいたが、怒った百姓が殿の陰嚢を蹴り上げたため即死したとか、その他手打ちにしようとして返り討ちにあったとか、鷹狩の帰途落馬して死んだとか、横死説が多い。」
実際に残されている病歴からは、酒色(アルコール依存症)によるアルコール性肝硬変、内臓疾患が死因の最有力とされている。

享年21歳嗣子無きため、お家断絶墓所は岡山市番町2丁目の瑞雲寺にある。
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現在、工事中であるが、仮設トイレが二個真正面に置かれていた。
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お墓は本堂の中にあるようで年に一度は入れるようだ。