池田輝政は、摂津茨木城主、中川瀬兵衛浦秀の娘糸子を娶っていたが、糸子が嫡子利隆を産んで産後の肥立が悪く、中川家に帰っていた間に、徳川家康から小田原城主、北条氏直に嫁していた、二女の富子(秀吉の小田原攻めで後家になった)を押し付けられたため、妻の糸子を離別した。

その後富子は、次男忠継、三男忠雄、四男輝澄、五男政綱、六男輝興を産んだ。関ヶ原の合戦後、池田輝政は播磨国姫路五十二万石の藩主になった。そして姫路城を構築した。DSC_0582

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家康は関ヶ原の合戦で戦功があった、備前岡山藩主小早川秀秋が横死し嗣子がなかったため、輝政の次男忠継に備前岡山藩28万石を、三男忠雄に淡路由良藩6万石を与えた。


慶長18(1612)年輝政は50歳で没し、輝政の死後播磨国は13郡、42万石姫路藩主として嫡男利隆に、播磨国3郡10万石と備前岡山28万石合計38万石が次男忠継に、淡路国由良藩6万石が三男忠雄に分けられた。


ところが利隆が元和2(1616)年京都四条の京極邸で横死したため、42万石姫路藩主は嫡男池田光政が継いだが幼少であるという理由で因幡鳥取藩32万石の藩主として、移封された。


幕府は姫路藩主には徳川譜代の本多忠政を据えた。光政が富子ではなく先妻の中川氏の血を引くためであったといえる。

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初代岡山藩主池田忠継、次男でわずか五歳で28万石岡山藩主に、兄にあたる長男利隆が後見人に、ところが慶長20(1615)年弱冠17歳で病死した。毒物を飲んで死んだとの噂がある。

この毒饅頭事件とは、忠継の母富子は我が子を姫路藩主にしようと企み、後継ぎとされていた利隆(1612年父輝政の死後は長男利隆が姫路藩主)を亡き者にしようとして、慶長2(1615)年に岡山城内で忠継と後見人の利隆が対面した時、饅頭に毒を入れ食べさせようとしたが給仕の女中が手の平に毒と書いて手を付かなかった。兄を尊敬していた忠継は兄に与えられていた饅頭を奪い取って口に入れ苦しみながら急死した。


富子は自らが仕組んだ陰謀がばれたことを知り自分も毒入りの饅頭を食べて死んだという、忠継は清泰院(小橋町国清寺隣り)に葬られた。
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国清寺
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新京橋を作るに当たり、現在は浦安に移転、墓はその形から、芋墓と呼ばれる。
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忠継が横死したため、輝政の三男で忠継の弟である忠雄を岡山藩主に石高は32万石。忠雄の業績は月見櫓があげられる。雪の日に写した月見櫓。
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ところが忠雄は1632年江戸藩邸で急死、跡目は光仲が3歳という幼少であったため、お国替えにより、従兄の鳥取藩主池田光政が備前藩主に、池田光仲が鳥取藩主になった。