Yasukoの歴史探訪

日本史、世界史、美術史、郷土史など歴史が好きなので、趣味の写真を撮り込みながらまとめてみたい

カテゴリ: 歴史探訪

今から約260年まえ、享保11年(1726年)美作津山藩を揺るがせた山中一揆が起きた。その痕跡は津山市二宮の高野神社のそばの国道(旧出雲街道)沿いに六体の首のない石地蔵がある。このお地蔵さんは山中一揆の指導者、徳右衛門ら6人の供養のため民衆によって立てら ...

優秀で、超有名な優れた人なので、取り上げにくい人物であるが、私が見聞きした人物像を取り上げてみたい。まず山田方谷の曽祖父は山田家の跡取りを出家させようとした住職を斬殺して自刃し全財産を没収され、妻子は所払いとなり、その19年後に昌益の子正芳(方谷の父)が ...

先日、上月城を写しに行ったとき、資料館の入り口近くに「立石孫一郎誕生地」という碑があった。その後ろには由緒ありそうな大きな家があった。倉敷の夜景その時は何も思わず帰ってどんな人物なんだろうと調べてみると、幕末の頃に倉敷にいたこともあったり、浅尾騒動を引き ...

山中鹿助幸盛は月山の麓(島根県安来市広瀬町戸田)新宮村に1545年に、父は尼子晴久の家老であった山中満幸の二男として生まれたが、父は彼が1歳半で死去、母に育てられた。月山を望む広瀬の町並み兄幸高が病弱であったので家督を継いで尼子氏に仕えたがこのころは、尼 ...

時代の年表1867年10月14日徳川慶喜が大政奉還を朝廷に申し出る。翌日これを受諾      12月7日神戸港の開港神戸港開港とともに外国人の居留地が山側に作られる、予め三宮ルートは避けるように言われていた。萌黄の館のような異人館が次々建設された     ...

現在の津山城は備中櫓が再建されている初代藩主、森忠政の像・森蘭丸には似ていなかったに違いない津山藩初代藩主、森忠政(本能寺の変で戦死した森蘭丸の弟、18万6500石)からかぞえて90余年たった元禄元年(1697)4代藩主森長成は江戸藩邸で死去、嗣子がなか ...

松平定信の孫で備中松山藩の婿養子となった、板倉勝静は20歳年上の、山田方谷に藩政改革を担当させて10万両の借金を蓄財10万両にすることに成功した。天空の城、備中松山城、登るのにはかなりしんどい御根小屋の場所は現在高梁高校、実務は麓の御根小屋でされていた高 ...

天正7年(1579)宇喜多直家が毛利輝元と断交し織田信長に服属して以来、備前・備中境目周辺は織田・毛利が睨み合う緊張地帯となった。毛利氏は清水宗治に髙松城を預け、境目諸域に直属家臣や芸備国衆を派遣した。天正10年(1582)単独で毛利氏と戦っていた宇喜多 ...

「備前法華に安芸門徒」という言葉は備前地域には日蓮宗が、広島県西部には浄土真宗が多いという意味で、岡山県南部には、特に備前地域には日蓮宗諸宗派の中でも不受不施派が多い。不受不施とは受不施と違うのは、日蓮宗を信仰しないものからの布施は受けない、他宗の寺院。 ...

1717年(享保2)から翌年にかけて、岡山県総社市新本は、当時岡田藩の支配下にあった。新本義民騒動とはこの地区で農民たちが入会地の返還をめざして起こした百姓一揆をいう。この地区の大平山と春山は共有地で従来は村の持ち山として、村人たちが自由に使用していたも ...

今から60年位前(1959年)に児島湾に締切堤防が出来て、備前の穴海と呼ばれていた児島湾は、淡水の湖と化した。現在は道路が通っていて昔の形跡はない。その児島湾の一番奥に八浜という漁師町が栄えていた。現在の八浜町並み保存拠点施設になっている元衆議院議員を務 ...

桜の花が満開の備中高梁の松蓮寺隣は「口笛を吹く寅次郎」のロケ地の薬師院お寺が二軒並ぶとまるで要塞のような壮観さ。1533年、16世紀の頃、三村家親は法雲山城(美星町)から備中攻略をめざし成羽に進出した。成羽城を構築し在城30年備中国大半を制覇した。成羽の ...

勢力拡大を続ける宇喜多直家は、高梁の松山城にあった備中の雄・三村家親と抗争を構え、1566年美作に侵入した家親を計略により久米南町の興禅寺にて鉄砲で暗殺した。家親はお福さんの元夫を殺したので仇を討ってもらったことになる。1567年、親の復讐を誓う備中松山 ...

「備前軍記」に書かれる宇喜多直家は、1529年に宇喜多興家の子として生まれ、幼名を八郎といった。祖父の能家は1534年直家5歳の時、砥石城(邑久町豊原)において、高取山城(邑久町東谷)の島村盛実の夜襲にあって自害した。宇喜多能家の墓所のある大賀島寺のある ...

戸川氏の始祖戸川秀安は、備後の国門田に生まれる。幼くして父を失う。長じて宇喜多直家に仕える。宇喜多氏が備作の太守となるや、備前児島の常山城主となり、宇喜多家の重臣として活躍した。晩年は友林と号し常山山麓に隠れ世を去った。子の達安(みちやす)は秀家の執政と ...

昨年の種松山の桜、桜の頃は車で一杯になる。この山の麓に千人塚(岡山県倉敷市広江2丁目)、というところがある。どういう意味があるのかな、何かあるなと思って初めて行って見た。案内板に書いてあるのは「明治17年(1884年)8月25日、岡山県南部を直撃した台風 ...

戦国の三梟雄といわれた宇喜多直家を伯父に持ち、父親は直家の弟の忠家ないしは春家といわれる宇喜多与太郎基家は1562年に生誕している。直家には、女子が4人いたがそれぞれの悲惨な生涯を送っている。直家は甥の基家を養子とした。1581年4月秀吉から宇喜多家に使者が来た。 ...

常山は岡山県玉野市の北西部と岡山市南区灘崎町の境に、標高309.2m、その頂上には常山城が文明年間(1469~1486年)に備中の戦国大名三村氏の姻戚である上野氏によって最初に築かれた。以後上野氏の居城となった。3代目の上野肥前守隆徳が最後の当主で、夫人の名前は鶴姫。 ...

1185年12月7日(現1月10日) 藤戸合戦の開始平氏方は本拠地屋島を守るため、平行盛が現在児島の篝(かがり)地蔵のあたりに城郭を築いていた平氏の兵力は500隻500余騎頼朝が平氏追討の兵をあげたときその武将として代官となったのが異母弟の源範頼であるが ...

1184年1月  木曽義仲が征夷大将軍となるが、宇治川で源範頼(義朝の六男母は池田宿の遊女といわれる)義経(義朝の九男母は常盤御前)と激突し敗死。同2月  福原まで勢力を回復していた平氏を源義経が摂津一の谷で奇襲(急な坂を馬で下りて背後から攻めた)で撃破、 ...

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