日蓮の弟子、京都の諸大寺からは排斥されていた、日像の弟子になった、大覚は西国に布教せよとの命で1333年ちょうど鎌倉幕府滅亡の年に、旭川の河口の浜野村に着いた。この地に寺を建立して住む。今の松寿寺である。松寿寺樹齢600年の槐(えんじゅ)以来13年岡山に滞在して4 ...
池田家の出自
池田輝政は、摂津茨木城主、中川瀬兵衛浦秀の娘糸子を娶っていたが、糸子が嫡子利隆を産んで産後の肥立が悪く、中川家に帰っていた間に、徳川家康から小田原城主、北条氏直に嫁していた、二女の富子(秀吉の小田原攻めで後家になった)を押し付けられたため、妻の糸子を離別 ...
岡山市吉備津生まれの栄西
鎌倉仏教の臨済宗の開祖栄西が岡山市出身であった。吉備津宮内は栄西禅師の生誕の地で、栄西は吉備津神社の宮司賀陽(かや)氏の出で、1141(永治元)年に生まれた。11歳の時、岡山市日近の安養寺(天台宗)の僧静心に指示した。あわせて日応寺でも修行した。14歳で ...
岡山市の犬島と倉敷市の帯江銅山
岡山市東区犬島は宝伝の沖、約3kmに浮かぶ島で、宝伝港から船で渡る。近年は島をあげての家プロジェクトを企画して観光客を呼び込んでいる。(画像は2018年のもの)この島には、ベネッセが製錬所美術館を開館させた。そのような企画が持ち上がる前には、知り合いの写 ...
20歳そこそこで他界している岡山城主、小早川秀秋
宇喜多秀家のあとに、岡山城にやってきたのは小早川秀家である。秀家は天正10年(1582)、木下家定(北の政所、高台院の兄)の五男として、近江国長浜で生まれた。天正13年叔父羽柴秀吉の養子になり、高台院に育てられた。わずか7歳で元服、丹波亀山10万石を与え ...
児島湾干拓事業の樋門巡り
樋門の優雅さを発見して、一日で巡ってみた。岡山平野では古くから干拓が行われた。宇喜多秀家により干拓が始められ、1692~1824年の池田藩政時代には、沖新田、興除新田など約6800haの干拓地できた。明治になって、32年に着工された、児島湾干拓事業は明治 ...
山陽の大親分、岡田屋熊治郎
吉備津神社の門前町宮内は江戸幕府に、春秋2回30日にわたる大市の開催を認められ、芝居興業も開催され大勢の人が集まるようになった。旅籠・飲食店が次々とでき飯盛奉公人を雇い入れる許可が幕府に認可されたのがもとで宮内遊郭ができた。文化・文政の頃には茶屋・旅籠が ...
岡山大空襲の遺構・田町橋
何時も車で通過はしているが、改めて写したことはなかった。橋の傍に「明治43年木造の橋が作られたが、昭和5年にコンクリートの橋に作り替えられ、昭和20年6月29日の岡山大空襲で多くのひとが亡くなった。かつての大惨事の記憶を今に伝える」。と書かれている。私も ...
悲惨・山中一揆
今から約260年まえ、享保11年(1726年)美作津山藩を揺るがせた山中一揆が起きた。その痕跡は津山市二宮の高野神社のそばの国道(旧出雲街道)沿いに六体の首のない石地蔵がある。このお地蔵さんは山中一揆の指導者、徳右衛門ら6人の供養のため民衆によって立てら ...
岡山を通過していた、菅原道真
「知恵泉」という番組で、菅原道真が取り上げられていたので神様になったという点では興味がないが人間的な面の菅原道真をまとめてみた。まず、「学問の神様はオタク?という始まり、超エリートの挫折と改心、上司の失敗に物申す術。栄光のあとの悲劇、左遷。」生誕は京都、 ...